2012年3月28日水曜日

将棋 なぜ「名人」の価値は下がってしまったのでしょうか?

将棋 なぜ「名人」の価値は下がってしまったのでしょうか?

こんにちは



将棋です。



なぜ『名人』の価値は下がってしまったのでしょうか?



以前は、名人といえば雲の上の存在で、

その価値は他のタイトルを圧倒的に上をいっており、

ほとんど(全員)の棋士が、名人を目指して精進されていました。



しかし、今は七大タイトルの一つという扱われ方で、

竜王、棋聖、棋王、王位、王座、王将と、さして価値はかわらなくなりました。



昔は、大山康晴13連覇、続いて中原誠9連覇とあり、

その時の大山先生、中原先生は、間違いなく将棋会で一番強い棋士でした。



確かに、「今、一番強い棋士は?」と言われれば「羽生名人」と答える人が多いでしょうが、

それは、羽生さんが他のタイトルもたくさん取っており、

七冠制覇、王座19期連続という、記録も含めている思います。



仮に羽生さんが名人から陥落しても、羽生さんが一番強い棋士は変わらないでしょう。

(森内さんももちろん強いですが・・・)



なぜ、名人の価値は下がってしまったのでしょうか?

ひとつの新聞社だけではやっていけなくなったのが、大きいのでしょうか?


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加藤一二三が名人になったとき、「名人が普通のタイトル戦になった」と某観戦記にかかれました。確か河口六段だったと記憶しています。





木村・大山・中原と将棋名人は実力制に改変されてからも江戸時代からの伝統を受け継ぐがごとく長期安定政権でした。それが加藤以降、一年から数年で奪い合うものになった。昨今の首相が一年ですげ替えられて軽んじられるのと同じ理屈だと思えばいいでしょう。コロコロ変わるようだと有り難みがないという理屈ですね。





名人戦より賞金が高い、が建前の竜王戦の設立は、背景は読売のごり押しですが、それは戦前からあったものです。昭和初期の将棋界は新聞社が棋士を嘱託にして囲い込み観戦記や出版、さらには主宰棋戦のシードなどを手配していました。これは弟子を含んだ派閥ごとの話なため、結構な大事で例えば大山康晴は毎日、升田は朝日、塚田正夫は読売という具合です。それが1976年、囲碁の棋聖戦(読売)の賞金額との釣り合いから始まった名人戦賞金の増額の是非から主宰の朝日が降りたという事件が起こり結果増額は実現、これが読売を刺激したという背景もあったのです。そして竜王戦は設立され名人との格が論争を呼んでいるのです。





こうした要因から名人戦の格をどうこういうようになったのだと思います。しかし関根十三世名人の「名人は当代実力最強の者がなるべき」と世襲を打破した志を酌めば、むしろ長期政権より相争う割拠こそ正しい姿です。政治とは違うのですよ。



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新聞棋戦なので単純に賞金がいまいちなのではないのかな?読売の竜王戦の様賞金高ければ将棋世界の一番右に来ますよ。でも棋士の皆さんにとっては名人はやっぱり名人だと思います。


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価値は全く下がってません。下がったと思ってるのは賞金額しかみてない人だけ。プロが1番目指すのは名人です。



それに名目上は竜王が上となっていますが、実際には名人は1期で九段、竜王は2期取らないと九段になれません。


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名人が将棋の最高峰なのは間違いない。運でタイトルを取れる他のものとは違う。名人は最短で5年、実力が続かないと獲得できない。一発で竜王のタイトルを取って、他は何も活躍しない渡辺明とは格が違う。もちろん渡辺明は別格の棋士だけど、今は比較にならない。羽生ファンより。


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色々な要因があるように個人的には思います。 一つは、将棋人気の低迷でしょう。過去には著名な作家などがスポークスマン的な役割をはたしていましたが、そういう存在も今はないですし。

また、将棋はゲームだという認識も名人の神格化という幻想から遠ざけてしまった一因だと思います。

あとは、俗っぽいですが、中原名人のスキャンダルも結構、名人の権威を下げてしまったと思います。


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A級棋士にさえなれずに引退していくプロ棋士の方々が沢山いらっしゃいます。



将棋界の名人位はいつまでも最高位であり神的な存在だと思います。



賞金額の高い棋戦やプロ・アマ交流戦が増えたのは喜ばしいことです。指導対局など受けるとプロ棋士の方々もすごく身近に感じられるようになりましたが、奨励会の3段リーグ以上の方達は別世界の人という印象です。


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1994年からの説明ですが、名人位だけは将棋の神様に選ばれた人しかなってません。



中原名人の天下から米長会長



そして、羽生名人、谷川九段、佐藤康光九段、丸山九段、森内九段



過去10年では丸山九段、羽生名人、森内九段の3人だけです。



しかも過去8年からは羽生名人と森内九段のみが名人位になってます。



つまり、誰でも名人に挑戦は出来るがタイトル奪取はそれなりに相応しいプロ棋士しかなってません。



これが、プロ棋士の格と言うものです。



渡辺竜王7連覇の偉業も凄いですが、名人位だけは別格でしょう。



渡辺竜王も将棋の神様に愛されたらいずれ名人位になると感じますが・・・(私の予想では必ず名人位になります。断言できます。)



ここに上げていない他のプロ棋士では誰が挑戦しようが、名人戦第一局が始まる前から結果が予想出来ます。(名人防衛)



選ばれた人だけがなれるのが名人位です。格からいけば竜王よりも全然上です。



将棋界の頂点が名人と言うタイトルです。



・・・・だと勝手に感じてます。うんちくたれて申し訳ないです。


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今のような状態にしたのは、読売新聞社です。



囲碁の場合も同様に、本因坊という名タイトルに対し金にものを

いわせて、棋聖位を作りました。



順位戦の歴史や凄さをまるっきり理解しない、読売のあるトップは

札束で横っ面をひっぱたいて、ごり押しで読売が一番ということを

見せつけようとしました。



プロ野球だけで、威張っていればいいものを、文化の世界へ土ま

みれのスパイクでズカズカ踏み込んで、バットを振りまわしている

状態です。



いつかは、読売は将棋囲碁の世界から撤退すると思います。


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ああなるほど、言いたいことは分かりますね。誤解を招く表現はなさらない方がいいですよ。



確かに羽生さんは、最強と呼ばれるにしては名人戦に弱い。

これは推測することしかできないのですが、やはり同世代の棋士たちもまた、あまりに強すぎるからでしょうね。

これは情報化が進み研究がより激しくなったため、力の差が相対的に差が小さくなったのが原因ではないかと勝手に思っています。





名人一個持ってるよりも、他のタイトル3つ持ってた方が強そうですしね。

タイトルが増えて、相対的に価値が落ちるのは仕方ないでしょう。



ただ、名人そのものの権威は健在です。

加藤一二三は一年しか名人になっていませんが、もしその一年がなかったら、風格が全然違ってくる気がします。

何より、いつの時代も将棋少年の夢は名人ですからね!


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どのような客観的な事実があって、「価値が下がった」と感じるのでしょうか?

>さして価値はかわらなくなりました。

と感じるのはなぜですか?

将棋が好きな小学生に、「将来の夢は?」と聞くと「名人になること」と答えませんか?



私は、名人・名人戦が最も権威ある地位・棋戦だと信じてます。



戦前、タイトル戦は名人戦だけでした。

戦後、「王将戦」・「九段戦(のちの十段戦)」が新設され、3大タイトル戦。

その後、「棋聖戦」・「王位戦」が追加。5大タイトル戦の時代が長かった。

昭和50年代以降は、「棋王戦(複数の一般棋戦を統合)」・「王座戦」がタイトル戦に昇格。今の7大タイトルの原型になりました。

この頃までは、名人・名人戦の価値は微動だにしませんでした。



昭和の終わりのころ、「十段戦を発展的解消し、新棋戦を発足する」という話が持ちあがりました。

そのときの取決めは、

- 新棋戦の対局料大幅アップと対局料の公開

- 新棋戦を将棋界の最高位として位置づける

でした。

札束で頬をひっぱたかれた格好で、連盟は条件を飲みました。

これが今の「竜王戦」。



以来連盟自身が、名人戦より竜王戦が格上と言わざるを得ない状態が続いている(と私は思ってます)。



江戸時代から連綿と続く「名人」。

せいぜい20数年、前身から数えても70年に満たない「竜王」。

どっちが価値が高いか?と聞かれると、私は「名人」と答えます。


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質問の前提に根拠がありません。

あなたがそう考えているだけです。

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